・・・しかし、耳も遠くなって、目のかすんだまりは、せっかくの雲の呼び声にも気づきませんでした。雲は、哀しそうに去ってゆきました。――一九二五・四作―― 小川未明 「あるまりの一生」
・・・広い会所の中は揉合うばかりの群衆で、相場の呼声ごとに場内は色めきたつ。中にはまた首でも縊りそうな顔をして、冷たい壁に悄り靠れている者もある。私もそういう人々と並んで、さしあたり今夜の寝る所を考えた。場内の熱狂した群衆は、私の姿など目にも留め・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ ところが、翌る日には登勢ははや女中たちといっしょに、あんさんお下りさんやおへんか、寺田屋の三十石が出ますえと、キンキンした声で客を呼び、それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代るまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの・・・ 織田作之助 「螢」
・・・と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」と金切り声を出した。それが愛嬌で、客が来た。蝶子は、鞄のような財布を首から吊るして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。 朝の・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・彼にはうしろからの呼声が耳に入らなかった。ほんとに馬鹿なことをしたものだ。もうポケットにはどれだけが程も残っていやしない!「近松少佐!」「大隊長殿、中佐殿がおよびです。」 副官が云った。 耳のさきで風が鳴っていた。イワン・ペ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 患者が看護人を呼ぶように、力のない、救を求めるような、如何にも上官から呼びかける呼び声らしくない声で、近松少佐は、さきに行っている中隊に叫びかけた。 中隊の方でも、こちらと殆んど同時に、左手のロシア人に気づいたらしかった。大隊長が・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・沈まり返った屋外の方で、高瀬の家のものは誰の声とは一寸見当のつかない呼声を聞きつけた。「高瀬君――」「高瀬、居るか――」 声は垣根の外まで近づいて来た。「ア」 と高瀬は聞耳を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮をさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。 私は島の単調さに驚いた。歩いても・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・という嗄れた呼び声が馬場の物語の邪魔をした。ぎょっとして振りむくと、馬場の右脇にコバルト色の学生服を着た背のきわめてひくい若い男がひっそり立っていた。「おそいぞ」馬場は怒っているような口調で言った。「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 月のない闇黒の一夜、湖心の波、ひたひたと舟の横腹を舐めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
出典:青空文庫