・・・安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、流行唄が聞え出す。蜜豆屋がガラス皿を窓へ運んでいる。茄玉子林檎バナナを手車に載せ、後から押してくるものもある。物売や車の通るところ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫も凡衆と異なるところなくふるまっているかも知れぬ。しかしひとたび筆を執って喧嘩する吾、煩悶する吾、泣く吾、を描く時はやはり大人が小児を視るごとき立場から筆を下す。平生の小・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ分らねえ、分らねえ筈だ、未だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・世間普通の例に男同士の争論喧嘩は珍らしからねど、其男子が婦人に対して争うことは稀なり。是れも男子の自から慎しむには非ずして、実は婦人の柔和温順、何処となく犯す可らざるものあるが故ならん。啻に男女の間のみならず、男子と男子との争にも婦人の仲裁・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ 男たちはよろこんで手をたたき、さっきから顔色を変えて、しんとして居た女やこどもらは、にわかにはしゃぎだして、子供らはうれしまぎれに喧嘩をしたり、女たちはその子をぽかぽか撲ったりしました。 その日、晩方までには、もう萱をかぶせた小さ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・「さあ……女中と喧嘩して私帰らしていただきますなんていうの」 岡本が、蒼白い平らな顔に髪を引束ねた姿で紅茶を運んで来た。彼女は、今日特別陰気で、唇をも動かさず口の中で、「いらっしゃいまし」と挨拶した。「岡本さんも一緒に召・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・なんぞと云って、電話で喧嘩を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑の中には多少の Bosheit がある。しかしこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい。 号砲が鳴った。皆が時計を出して巻く。木村も・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ツァウォツキイはえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もする。そのくせなかなかよい奴であった。女房にはひどく可哀がられていた。女房はもとけちな女中奉公をしていたもので十七にな・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・昼日中喧嘩して!」とお留は口を入れた。「お母ア、黙っとりゃええんじゃ。」「秋公頼むわ。どこへでもええで寝さしてくれよ。」と安次は云った。「ぬかしてよ。汝や汝で、何ぜ俺とこを母屋やなんてたれるのや。どこで聞いて来た。他家んとこへ来・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫