・・・いつも背広の片腕に黒い喪章を巻いていたような気がする。しかし実に頭のいい先生だと思って敬服していた。言葉は自分には少し分りにくいドイツ語であったがその講義は簡潔でしかも要を得た得難い良い講義だと思われた。大事なしかもかなり六かしい事柄の核心・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・親を亡くした当座で、左の腕に喪章を附けている。その時のマドレエヌはどうであったか。栗色の髪の毛がマドンナのような可哀らしい顔を囲んでいる若後家である。その時の場所はどんな所であったか。イソダンの小さい客間である。俗な、見苦しい、古風な座敷で・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・行人の喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙ってやめなかった。この蓋世不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒す暇を与えなかった。そうして彼の田虫は彼の腹へ癌のようにますます深・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫