・・・それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。 下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともし・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 真面目に自己というものを考える時は常に色彩について、嗅覚に付て、孤独を悲しむ感情に付て、サベージの血脈を伝えたる本能に付て、最も強烈であり、鮮かであった少年時代が追懐せられる。故に、習慣に累せられず、知識に妨げられずに、純鮮なる少年時・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・私はそんなところには一種の嗅覚でも持っているかのように、堀割に沿った娼家の家並みのなかへ出てしまった。藻草を纒ったような船夫達が何人も群れて、白く化粧した女を調戯いながら、よろよろと歩いていた。私は二度ほど同じ道を廻り、そして最後に一軒の家・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・…… 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・自分でもそれを下品な嗅覚だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありま・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・とは云うもの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、そうかと云って普通の嗅覚でもない。舌や口蓋や鼻腔粘膜などよりももっと奥の方の咽喉の感覚で謂わば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官の外の第六官に数えるべ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 以前に「鳥類の嗅覚」に関する詳しい記事のありそうな本を捜していた時に、某書店の店員が親切にカタログをあさってともかくも役に立ちそうな五六種の書名を見つけてくれて、「海外注文」を出してもらったが、一年以上たってもただ一冊手に入っただけで・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・一方ではまた、嗅覚と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊なにおいをかぐと、自分はどういうものかきっと三つ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 視覚によらないとすると嗅覚が問題になるのであるが、従来の研究では鳥の嗅覚ははなはだ鈍いものとされている。 その一つの証拠としては普通ダーウィンの行なった次の実験があげられている。数羽の禿鷹コンドルを壁の根もとに一列につないでおいて・・・ 寺田寅彦 「とんびと油揚」
出典:青空文庫