・・・涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に閉口した。煙草を吸ったり、鼻をかんだり、さまざま工夫して頑張って、とうとう私は一滴の涙も眼の外にこぼれ落さなかった。・・・ 太宰治 「故郷」
・・・翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。翌る朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、この映画一つだけである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・同じくらいのはやさで、落下しながらも、少年は背丈のび、暗黒の洞穴、どんどん落下しながら手さぐりの恋をして、落下の中途にて分娩、母乳、病い、老衰、いまわのきわの命、いっさい落下、死亡、不思議やかなしみの嗚咽、かすかに、いちどあれは鴎の声か。落・・・ 太宰治 「創生記」
・・・馬場はそう呟いて微笑んでみせたが、いきなり左手で顔をひたと覆って、嗚咽をはじめた。芝居の台詞みたいな一種リズミカルな口調でもって、「君、僕は泣いているのじゃないよ。うそ泣きだ。そら涙だ。ちくしょう! みんなそう言って笑うがいい。僕は生れたと・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・私は、いくら酒を飲んでも、乱れるのは大きらいのたちですから、その悪口も笑って聞き流していましたが、家へ帰って、おそい夕ごはんを食べながら、あまり口惜しくて、ぐしゃと嗚咽が出て、とまらなくなり、お茶碗も箸も、手放して、おいおい男泣きに泣いてし・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・突風のように嗚咽がこみあげて来たのを、あやうくこらえた。「やっと、僕たち、なんにも知らなかったのだということが判って、ひとまず釈放というところなのです。ひとまず、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・(袖から顔を半分出し、嗚咽そうして、あたしも、もうだめなのだわ。どんなにあがいて努めても、だめになるだけなのだわ。(何か勘違いしたらしく、もぞりと一膝そう、そうです。このままでは、だめです。思い切って生活をかえる事です。睦子さんひとりく・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・彼我相通ぜぬ厳粛な悲しみ、否、嗚咽さえ、私には感じられるのだ。われらは永い旅をした。せっぱつまり、旅の仮寝の枕元の一輪を、日本浪曼派と名づけてみた。この一すじ。竹林の七賢人も藪から出て来て、あやうく餓死をのがれん有様、佳き哉、自ら称していう・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾で名残を惜まれたり、または嗚咽でもって不吉な餞を受けるのである。列車番号は一〇三。 番号からして気持が悪い。一九二五年からいままで、八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたこと・・・ 太宰治 「列車」
・・・けれども、それから大声で笑おうとして、すっと息を吸い込んだら急に泣きたくなって、笑い声のかわりに烈しい嗚咽が出てしまいました。 あの子の髪は、金の橋。 あの子の髪は、虹の橋。 森の小鳥たちは、一斉に奇妙な歌をうたいはじめました。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫