・・・彼は尻もちをついたまま、年とった支那人に歎願した。「もしもし、馬の脚だけは勘忍して下さい。わたしは馬は大嫌いなのです。どうか後生一生のお願いですから、人間の脚をつけて下さい。ヘンリイ何とかの脚でもかまいません。少々くらい毛脛でも人間の脚・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・保吉はとうとう待ち遠しさに堪えかね、ランプの具合などを気にしていた父へ歎願するように話しかけた。「あの女の子はどうして出ないの?」「女の子? どこかに女の子がいるのかい?」 父は保吉の問の意味さえ、はっきりわからない様子である。・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・男 お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知っているだろう。B どうしても己は死ななければならないのか。ああどうしても己は死ななければならないのか。男 お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出来た・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・ 進退共に窮まった尼提は糞汁の中に跪いたまま、こう如来に歎願した。しかし如来は不相変威厳のある微笑を湛えながら、静かに彼の顔を見下している。「尼提よ、お前もわたしのように出家せぬか!」 如来が雷音に呼びかけた時、尼提は途方に暮れ・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは案の定燕麦売揚代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の種子は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が沢山出来た。 その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ある秋の末にクララが思い切ってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だといったばかりで別にとめはしなかった。 クララの回想とはその時の事である。クララはやはりこの堂母のこの座席に坐っていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 二三軒隣では、人品骨柄、天晴、黒縮緬の羽織でも着せたいのが、悲愴なる声を揚げて、殆ど歎願に及ぶ。「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦の弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦も最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたっ・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・と、私は彼に嘆願した。しかし彼は聴かなかった。結局私は彼に引張られて、下宿を出た。 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、かなりな建物の西洋料理屋だ。私たちがそこの角を曲ると、二階からパッとマグネシュウムの燃える音がした。「今・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。 この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫