・・・ホップ夫人は該ステュディオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐すること数回に及べり。夫人の語るところによれば、こは詩人トック君の強烈なる煙草を愛したる結果、その心霊的空気もまたニコティンを含有するためなりという。・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・当然街は彼を歓迎せず、豚も彼を見ては嘔吐を催したであろう。佐伯自身も街にいる自分がいやになる。そのくせ彼は舗道の両側の店の戸が閉まり、ゴミ箱が出され、バタ屋が懐中電燈を持って歩きまわる時刻までずるずると街にいて彷徨をつづけ、そしてぐったりと・・・ 織田作之助 「道」
・・・膳の上にも盃の中にも蚊が落ちている。嘔吐を催させるような酒の臭い――彼はまだ酔の残っているふら/\した身体を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。 朝飯を済まして、書留・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・所どころに嘔吐がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったときの経験は頭に上り、今は静かに歩くのだった。 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ ああ、書きながらも嘔吐を催す。人間も、こうなっては、既にだめである。浩然之気もへったくれもあったものでない。「月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して盃出したる、よろずの興を添うるものなり。」などと言っている昔の人の典雅な心・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・軍服のボタンは外れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐をかけたまま押し潰され、顔から頬にかけては、嘔吐した汚物が一面に附着した。 突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉のところに、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮き彫りのように顕われた。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そうして、牛乳やいわゆるソップがどうにも臭くって飲めず、飲めばきっと嘔吐したり下痢したりするという古風な趣味の人の多かったころであった。もっともそのころでもモダーンなハイカラな人もたくさんあって、たとえば当時通学していた番町小学校の同級生の・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・草花に処々釣り下げたる短冊既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。腹痛ようやく止む。鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、未だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められていた。それに彼女のがねばりついていた。そして、頭部の方からは酸敗した悪臭を放・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐を催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して毫も優るところあらざるなり。 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんこと・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫