・・・すると午後四時半ごろ右の狼は十字町に現れ、一匹の黒犬と噛み合いを初めた。黒犬は悪戦頗る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛な種属であると云う。な・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・頭は二つとも噛み合いながら、不思議にも涙を流していた。幻は暫く漂っていた後、大風の吹き渡る音と一しょに忽ち又空中へ消えてしまった。そのあとには唯かがやかしい、銀の鎖に似た雲が一列、斜めにたなびいているだけだった。 ソロモンは幻の消えた後・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・要するに現代の生活においては凡ての固有純粋なるものは、東西の差別なく、互に噛み合い壊し合いしているのである。異人種間の混血児は特別なる注意の下に養育されない限り、その性情は概して両人種の欠点のみを遺伝するものだというが、日本現代の生活は正し・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれば乃ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・作者の主観に足場をおいて達観すれば、やがて、そのような主観と客観との噛み合いを作家としての歴史の底流をなす社会的なものへの判断で追究し整理するより、現象そのままの姿でそれを再現し語らしめようという考えに到達することは推察にかたくない。特に自・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・日常生活における猛烈な旧いものと新しいものとの噛み合い、新しい社会力の勝利、困難な、然し英雄的な大衆の建設力などの強烈な印象は、これまで小説なんぞ書いたことのない者の心さえ掴んだ。マメにつけられた日記一冊が、これまで世界文学のどこにもなかっ・・・ 宮本百合子 「プロレタリア婦人作家と文化活動の問題」
・・・ 漱石がこの明治四十年から大正初期にかけて、婦人の自我というものと男性の自我とが現実生活の中で行う猛烈な噛み合いを芸術の中に描いたのは注目に価する。牡に対する牝としてではなく、人間女として婦人がこの社会生活に関っている心理的な面を漱石は・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・睨み合う果てに噛み合いを初める。この地獄に似る混沌海の波を縫うて走る一道の光明は「道徳」である。吾人はここにおいて現代の道徳に眼を向ける。三 現代の因襲的道徳と機械的教育は吾人の人格に型を強いるものである。「人」として何らの・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫