・・・とか云う度に、歯のない口が、空気を噛むような、運動をする。根の所で、きたない黄いろになっている髯も、それにつれて上下へ動く、――それが如何にも、見すぼらしい。 李は、この老道士に比べれば、あらゆる点で、自分の方が、生活上の優者だと考えた・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ その晩もまた新蔵は悪夢ばかり見続けて、碌々眠る事さえ出来ませんでしたが、それでも夜が明けると、幾分か心に張りが出ましたので、砂を噛むより味のない朝飯をすませると、早速泰さんへ電話をかけました。「莫迦に、早いじゃないか。僕のような朝寝坊・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三「――あすこに鮹が居ます――」 とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、い・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と奴は悄乎げて指を噛む。「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然そんな事をいっちゃ不可いよ、まあ、話だわね。」 と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板をそっと撫で、「慾張ったから乾き切らない。」「何、姉さ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 少くとも、あの、絵看板を畳込んで持っていて、汽車が隧道へ入った、真暗な煙の裡で、颯と化猫が女を噛む血だらけな緋の袴の、真赤な色を投出しそうに考えられた。 で、どこまで一所になるか、……稀有な、妙な事がはじまりそうで、危っかしい中に・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ あれあれ、その波頭がたちまち船底を噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大なる魚が飛んだ。 瞬間、島の青柳に銀の影が、パッと映して、魚は紫立ったる・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・……朝顔を噛むようだ。……唯今でも皆がそう言うのでございますがな、これが変です。足を狙うのが、朝顔を噛むようだ。爪さきが薄く白いというのか、裳、褄、裾が、瑠璃、青、紅だのという心か、その辺が判明いたしません。承った処では、居士だと、牡丹のお・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・から出た言葉であって、一人寂しく寝るという気持が砂を噛む想いだといわれているのも、「キャッキャッ」という言葉がアラビヤ最初の言葉として発せられた時、たまたま沙漠に風が吹いてその青年の口に砂がはいったからだと、私は解釈している、更に私をして敷・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・それで今度はお前から注文しなさいと言えば、西瓜の奈良漬だとか、酢ぐきだとか、不消化なものばかり好んで、六ヶしうお粥をたべさせて貰いましたが、遂に自分から「これは無理ですね、噛むのが辛度いのですから、もう流動物ばかりにして下さい」と言いますの・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のよ・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
出典:青空文庫