・・・と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べ・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・その代り間代、米代、電燈代、炭代、肴代、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群って来る。お君さんは思わずその八百屋の・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・大勢の水夫は二人のまわりへ四方八方から集まって来る。 6 仰向けになった水夫の死に顔。突然その鼻の穴から尻っ尾の長い猿が一匹、顋の上に這い出して来る。が、あたりを見まわしたと思うと忽ち又鼻の穴の中へはいってしまう。・・・ 芥川竜之介 「誘惑」
・・・進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処らの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。 こう暴れているうちにも自分は、彼奴何時の間にチョーク画を習ったろう、何人が彼奴に教えたろうとそればかり思い続けた。 泣・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・と言いながら、目の玉に力を入れて、くるくる四方八方をにらみまわしました。するとそのたんびに、目の中からしゅうしゅうと、長い焔がとび出しました。そのために、にげかけていた鳩は、たちまち二つのつばさをまっ黒に焼きこがされてしまいました。 鳩・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・私は汗を拭い、ちょっと威容を正して門をくぐり、猛犬はいないかと四方八方に気をくばりながら玄関の呼鈴を押した。女中さんがあらわれて、どうぞ、と言う。私は玄関にはいる。見ると、玄関の式台には紋服を着た小坂吉之助氏が、扇子を膝に立てて厳然と正座し・・・ 太宰治 「佳日」
・・・『われひとりを悪者として勘当除籍、家郷追放の現在、いよいよわれのみをあしざまにののしり、それがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉、おうらめしく存じあげ候。今しばし、お名あがり家ととのうたるのちは、御兄上様御姉上様、何条もってあ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・『われひとりを悪者として勘当除籍、家郷追放の現在、いよいよわれのみをあしざまにののしり、それがために四方八方うまく治まり居る様子、』などのお言葉、おうらめしく存じあげ候。今しばし、お名あがり家ととのうたるのちは、御兄上様御姉上様、何条もって・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。 けれども、それから三年経ち、何だか・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫