・・・この門ももう戸が閉っている。ドーと遠くから響いてくる音、始めは気にも留めなかったが、やがて海の音と分った。私は町を放れて、暗い道を独り浦辺の方へ辿っているのであった。この困憊した体を海ぎわまで持って行って、どうした機でフラフラと死ぬ気になら・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・何処を徘徊いていたのか、真蒼な顔色をしてさも困憊している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」「何に格別の事は御・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・不忍の池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池の蓮も、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸をとどめ、ぞろぞろ通る夕涼みの人も間抜け顔して、疲労困憊の色が深くて、世界の終りを思わせた。 上野の駅まで来てしまった。無数の黒色の旅客が・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほう・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・彼の心は劇しく動揺して且つ困憊した。「それじゃ三次でも連れて来べえ」 対手は去った。太十は一隅を外した蚊帳へもぐった。蚊帳の外には足が投げ出してあった。蠅が足へたかっても動かなかった。犬は蔭の湿った土に腹を冷して長くなって居た。二人・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊の極まで追いつめてしまった。 恐ろしい螟虫の襲撃に会った上、水にまで反かれた稲は、絶望された田の乾からびた泥の上に、一本一本と倒れて、やがては腐って行く。 豊かな、喜びの・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自身半病人である少数の人々ばかりであった。 ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。スクータリーの名状できない混乱を・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫