・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・ しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には横わっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間稼ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀という池に身を投げようとさえ決心したことがあった。しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどではない。 自分はまず黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあると見え、残る牛も出る牛もいっせいに声を限りと叫び出した。その騒々しさは又自から牽手・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・女優に仕立てるには年が行き過ぎているし、一度芸者をしたものには、到底、舞台上の練習の困難に堪える気力がなかろう。むしろ断然関係を断つ方が僕のためだという忠告だ。僕の心の奥が絶えず語っていたところと寸分も違わない。 しかし、僕も男だ、体面・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・このことはさほどの困難ではありませんでした。しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈わす樹はある・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・どんな困難や辛苦がこの後あってもそれを切り抜けてゆこうという勇気がみんなの心にわいたのであります。 太陽は、赤く、暮れ方になると海のかなたに沈みました。そのとき、炎のように見える雲が地平線に渦巻いていました。「幸福の島は、あの雲の下・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・複雑、怪奇、微妙、困難、曖昧、――などと、当てはめようとしてもはまらぬくらい、この言葉はややこしいのだ。「あの銀行はこの頃ややこしい」「あの二人の仲はややこしい仲や」「あの道はややこしい」「玉ノ井テややこしいとこやなア」・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・つまり咳をしなくなったというのは、身体が衰弱してはじめてのときのような元気がなくなってしまったからで、それが証拠には今度はだんだん呼吸困難の度を増して浅薄な呼吸を数多くしなければならなくなって来た。 病勢がこんなになるまでの間、吉田はこ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫