・・・が、嫌悪はもう一度彼女の勇気を圧倒した。「あなた!」 彼女が三度目にこう言った時、夫はくるりと背を向けたと思うと、静かに玄関をおりて行った。常子は最後の勇気を振い、必死に夫へ追い縋ろうとした。が、まだ一足も出さぬうちに彼女の耳にはい・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
私には口はばったい云い分かも知れませんが聖書と云う外はありません。聖書が私を最も感動せしめたのは矢張り私の青年時代であったと思います。人には性の要求と生の疑問とに、圧倒される荷を負わされる青年と云う時期があります。私の心の・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・死が総てを圧倒した。そして死が総てを救った。 お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・絵画など――ことに絵画はかれをして後世永久の名を残さしめた物だが、ほとんどすべて未成品だ――を平気で、あせることなくやっている間に、後進または弟子であってまた対抗者なるミケランジェロやラファエルなどに圧倒されてしまった。 僕はその大エネ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・、ああした不幸な青年たちに直接に、自分として持ってきたすべてを捧げたい――そうしたところに自分の救いの道があるのではあるまいか、などと、いつものアル中的空想に囚われたりしたが、結局自分はその晩の光景に圧倒され、ひどく陰鬱な狂おしいような気持・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・陰影といい、運筆といい、自分は確にこれまで自分の書いたものは勿論、志村が書いたものの中でこれに比ぶべき出来はないと自信して、これならば必ず志村に勝つ、いかに不公平な教員や生徒でも、今度こそ自分の実力に圧倒さるるだろうと、大勝利を予期して出品・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・それで君は時とすると自然の美のあまりに複雑して現われているのに圧倒せられてしまう、僕にはそんなことはない、君は自然を捉えようと試みる、僕は観て感じ得るだけを感ずる、だいぶ僕の方が楽だ。時によると僕も日記中に君の見取り図くらいなところを書きと・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・然し二人は圧倒されて愕然とした、中辺の高さでは有るが澄んで良い声であった。「揃いも揃って、感心しどころのある奴の。」 罵らるべくもあるところを却って褒められて、二人は裸身の背中を生蛤で撫でられたでもあるような変な心持がしたろう。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・彼らの境遇や性質が、もしひとたび改変せられて、これらの事情から解脱するか、あるいはこれらの事情を圧倒するにいたるべき他の有力なる事情が出来するときには、死はなんでもなくなるのである。ただに死を恐怖しないのみでなく、あるいは恋のために、あるい・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫