・・・昨日の大阪の顔は或は古く或は新しくさまざまな粧いを凝らしていたものだが、今日の大阪はすでに在りし日のそうした化粧しない、いわゆる素顔である。つまりは、素顔の中に泛んだ表情なのである。それだけに本物であり、そしてまた本物であるだけに、わざとら・・・ 織田作之助 「起ち上る大阪」
・・・ 在りし昔が顕然と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・われとわが作品へ、一言の説明、半句の弁解、作家にとっては致命の恥辱、文いたらず、人いたらぬこと、深く責めて、他意なし、人をうらまず独り、われ、厳酷の精進、これわが作家行動十年来の金科玉条、苦しみの底に在りし一夜も、ひそかにわれを慰め、しずか・・・ 太宰治 「創生記」
・・・空しき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然として雲の湧くが如くにその折々は簇がり来るであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻るであろう。ウィリアムが吾に醒めた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫