・・・十年十五年と過ぎた今日になっても、自分は一度び竹屋橋場今戸の如き地名の発音を耳にしてさえ、忽然として現在を離れ、自分の生れた時代よりも更に遠い時代へと思いを馳するのである。 いかに自然主義がその理論を強いたにしても、自分だけには現在ある・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・何故カッパードシヤというかというと、なんでもカッパードシヤとか何とかいう希臘の地名か何かある。今は忘れてしまいましたが、希臘の歴史を教える時、その先生がカッパードシヤカッパードシヤと一時間の内幾回となく繰り返す。それでカッパードシヤという渾・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・第三、地理書 地球の運転、山野河海の区別、世界万国の地名、風俗・人情の異同を知る学問なり。いながら知るべき名所を問わず、己が生れしその国を天地世界と心得るは、足を備えて歩行せざるが如し。ゆえに地理書を学ばざる者は、跛者に異な・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・支那の人名地名を用い、支那の古事風景等を詠ずる場合はもちろん、わが国のことをいう引合いに出されたるも少からず。その句、行き/\てこゝに行き行く夏野かな朝霧や杭打つ音丁々たり帛を裂く琵琶の流れや秋の声釣り上げし鱸の巨口玉や・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
イーハトヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるならば、それは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。じつ・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・日本のつつましい女性は、ほとんど全部が海の彼方の生活は知らず、地名もなじみない彼方に遠く、手紙さえ書けず、はかなく愛するものを死なした。 すこし深めて、第二次世界戦争のいきさつを眺めてみると、私たちを非常におどろかせる事実がある。それは・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・行きずりの若い女の人の話がふと耳に入ると、その言葉の中には、その人が引揚げて来た遠い国の地名がいわれていたりする。生活経験というものだけが、文学を創る可能性であるなら、日本に婦人作家は輩出しなければならない。どんな人でも、語るべき一つの物語・・・ 宮本百合子 「婦人の生活と文学」
・・・広告などに出るようなのは、大抵地名を見ただけでも興味を持てない其近辺が多いのである。 又暫く気を揉まなくてはなるまいとは、二人の覚悟したことであった。容易に、都合よい家などのあるものではない。 どうせ、長く居る積りで越すなら、 ・・・ 宮本百合子 「又、家」
・・・「なに、教師をしていると、人名や地名の説明を求められますから、この位な本がないと、心細いのです。」 F君と私とは会話辞書の話をした。Meyer と Brockhaus との得失を論ずる。こう云うドイツの本が Larousse や B・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫