・・・人生は彼には東海道の地図のように明かだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏のあるという事実を感じない訣には行かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合していた。……「さもあろう。」「あの・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 参謀がこう云いかけた時、将軍は地図を持った手に、床の上にある支那靴を指した。「あの靴を壊して見給え。」 靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。二人の支・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 燕のたくさん住んでいるのはエジプトのナイルという世界中でいちばん大きな川の岸です――おかあ様に地図を見せておもらいなさい――そこはしじゅう暖かでよいのですけれども、燕も時々はあきるとみえて群れを作ってひっこしをします。ある時その群れの・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・波の恐怖といってはほとんどありません――そのかわり、山の麓の隅の隅が、山扁の嵎といった僻地で……以前は、里からではようやく木樵が通いますくらい、まるで人跡絶えたといった交通の不便な処でございましてな、地図をちょっと御覧なすっても分りますが、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、それから自分が執こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなこ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ただ地図を見てではこんな空想は浮かばないから、必要欠くべからざるという功績だけはあるが……多分そんな趣旨だったね。ご高説だったが……「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえび・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
一「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余た・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・茫漠たる前方にあたって一軒の家屋が見えた。地図を片手に、さぐり/\進んでいた深山軍曹は、もう、命じられた地点に来たと了解した。ところどころに、黒龍江軍の造った塹壕のあとがあった。そこにもみな、土が凍っていた。彼等は、棄てられた一軒の小屋に這・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のような測量機でペンキ塗りのボンデンをのぞき、地図に何かを書きつけて、叫んでいた。 英語の記号と、番号のはいった四角の杭が次々に、麦畑の中へ打たれて行った。 麦を踏み折られて、ぶつ/\小言・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。しかしこの釜和原から川上へ上って行くと下釜口、釜川、上釜口というところがあるが、それで行止りになってしまうの・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫