・・・母によんでもらい、仲よしにもよんで貰った。坪内雄蔵先生のところへそれを持ってゆくことになり、『中央公論』の瀧田樗蔭に会うことになり、少しちぢめて九月の『中央公論』に載せられた。薄謝と書いた紙包に百五十円入っていた。女子大は一学期でやめて・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・人を教えるものが妻と別れて平気で顔向けが出来るかという 七月八日 坪内先生へ手紙 足の工合がわるい 一人での生活をしたい心、そのときのことを楽しく空想する 七月二十二日 順天堂に通う。 A大阪に立つ、自分翌日一人・・・ 宮本百合子 「「伸子」創作メモ(二)」
・・・ 日本における現代文学の黎明は、明治十八年春廼やおぼろ坪内雄蔵の「小説神髄」によって不十分ながら輪廓を示された写実主義の主張をもって始った。当時、春廼やは「彼の曲亭の傑作なりける八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて決して人間とは云・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・ 坪内逍遙の「小説神髄」は近代日本文学にとっての暁の鐘であったとされている。逍遙はこの論文の中で、馬琴風な封建的枠内での勧善懲悪文学を否定して、文学における写実・客観的観察を提唱したのであった。しかも猶、この新しい写実文学の提唱者によっ・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子・・・ 宮本百合子 「昔の思い出」
・・・という小説を書いた。坪内逍遙が「当世書生気質」を発表した頃で、それに刺戟され、それを摸倣して書いた小説であり、当時流行の夜会や、アメリカ人や洋装をした紳士令嬢などが登場人物となっている。十八九歳だったこの才媛は、既に反動期に入った日本として・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫