・・・したその噂をべつだん悲しみもせず、さもありなんという表情で受けとり、なにそのおれが死んだというデマは実はおれが飛ばしてやったんだと陰気な唇でボソボソ呟き、ケッケッというあやしい笑い声を薄弱な咳の間から垂らしていた。げっそりと肉が落ち、眼ばか・・・ 織田作之助 「道」
・・・経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、二三滴のローを垂らして、その上に立てゝあった。殺伐な、無味乾燥な男ばかりの生活と、戦線の不安な空気は、壁に立てかけた銃の銃口から臭う、煙哨の臭いにも、カギ裂きになった、泥がついた・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・年が寄って寒むがりになった祖母は、水鼻を垂らして歩きながら、背の小さい弟をゆすり上げてすかした。 醸造場へ行くと、彼女は、孫の仁助に、京一をそう痛めずに使うてやってくれと頼んだ。 京一は、きまり悪るそうに片隅に小さく立っていた。・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・豊かな金髪をちぢらせてふさふさと額に垂らしている。伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理の細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透いて見える。黒褐色の服に雪白の襟と袖口。濃い・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 酒保の男は手をつけかねてしばし立って見ていたが、そのまま、蝋燭の蝋を垂らして、テーブルの上にそれを立てて、そそくさと扉の外へ出ていった。蝋燭の光で室は昼のように明るくなった。隅に置いた自分の背嚢と銃とがかれの眼に入った。 蝋燭の火・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・矢絣らしい着物に扱帯を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そうした、今から見れば古典的な姿が当時の大学生には世にもモダーンなシックなものに見えたのであろう、小杉天外の『魔風恋風』が若い人々の世界を風靡していた時代の・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・手近にあったアルコールの数滴を机の上に垂らしてその上に玉虫の口をおっつけると、虫は活溌にその嘴を動かしてアルコールを飲み込んだ。それがわれわれの眼にはさもさもうまそうに飲んでいるように見えた。虫の表情というものがあり得るかどうか知らないが、・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・勿論鼻汁を垂らしているのもある。とにかく震災地とは思われない長閑な光景であるが、またしかし震災地でなければ見られない臨時応急の「託児所」の光景であった。 この幼い子供達のうちには我家が潰れ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのも居る・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・それで四方八方良いことだらけになるのであるけれども、その秀才が夢中に奔走して、汗をダラダラ垂らしながら捜しているにもかかわらず、いわゆる職業というものがあまり無いようです。あまりどころかなかなか無い。今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・この暑さに襟のグタグタになるほど汗を垂らしてまで諸君のために有益な話をしなければ今晩眠られないというほど奇特な心掛は実のところありません。と云ったところでこう見えても、満更好意も人情も無いわがまま一方の男でもない。打ち明けたところを申せば今・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫