・・・ 慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、……… 六 それでも店の二階の蒲団に、慎太郎が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・僕はその新聞記者が近く渡米するのを口実にし、垂死の僕の父を残したまま、築地の或待合へ出かけて行った。 僕等は四五人の芸者と一しょに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終った。僕はその新聞記者を残したまま、狭い段梯子を下って行った・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・その室に、今、垂死の兵士の叫喚が響き渡る。 「苦しい、苦しい、苦しい!」 寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けて・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯を夢みた時、あたかもこの人の今の境遇が余の未来を現わしていて、余自身がこの翁の前身であるような感じがした。 彼は必ず希望を抱いて生れ、希望の力によって生きて来たであろう。否今もなおこの凩に吹き散る雲の影・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥である。余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
出典:青空文庫