・・・何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。 オペラ館の風呂場は楽屋口のすぐ側にあった。楽屋口・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ そこで世の中では――ことに昔の道徳観や昔堅気の親の意見やまたは一般世間の信用などから云いますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云って賞めそやします。いわゆる家業に精を出す感心な人というのは取も直さず真黒になって働いている一般的の知識・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ じゃあ堅気だね? それに又何だって跟けられてるんだい?」「労働争議をやってるからさ。食えねえ兄弟たちが闘ってるんだよ」「フーン。俺にゃ分らねえよ。だが、お前と口を利いてると、ほんとに危なそうだから俺は向うへ行くよ。そらバスケットを・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・一体わたくしは前から堅気な女で、今でも堅気でいるのでございますの。 お別れにお互に涙を飜したことは、まだ覚えていらっしゃって。お互に口に出さないつらさを感じましたわね。 それだのにあなた、パリイにいらっしゃってから、すぐにわたくしの・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そして今日どれほどの若い女性たちが、その生活の半分は堅気でありながらかげの半分では時々その道を歩く娘として生きているだろう。あるいはまた、いま歩いている道はまともな道だけれども、実にその道はすれすれに誘惑ととなり合わせていることを感じて生き・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット。強烈な火の急流のようなアンナ、または男がいつも我流に女を愛して平然としていることその他、女性の家庭生活の不満に充分苦しみながら「でも、大半は婦人に敵対している社会で、一人で生活しなければな・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・働く女がこんな勢で殖えているのだから、働く男女らしい傍目にも心持よい二人連れが殖えてゆくのは自然だろうのに、咎めだてされなければならない一組がふえているだけだとしたら、それは余り惨めだと思う。堅気の働く若い娘なんか、二人連で外を歩いたりしな・・・ 宮本百合子 「働く婦人」
・・・ 小さい堅気の女中は切口上で「女工さんでございます」と答えた。山のある町の人々は、工場の煙突を見なれたように、此那こともみんな見馴れて居るのだろう。町をひたす切な若々しい色彩の氾濫も、引潮の夜、思いがけぬ屋根の下でそれ等千代紙の・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・母と同じように堅気で真面目にしている子だからである。「手品なんざ見なくたってよございます。さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。 この時ツァウォツ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・サアお出だというお先布令があると、昔堅気の百姓たちが一同に炬火をふり輝らして、我先と二里も三里も出揃って、お待受をするのです。やがて二頭曳の馬車の轟が聞えると思うと、その内に手綱を扣えさせて、緩々お乗込になっている殿様と奥様、物慣ない僕たち・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫