・・・ Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里を離れず・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・けれどもまず諸君よりもそんな方面に余計頭を使う余裕のある境遇におりますから、こういう機会を利用して自分の思ったところだけをあなた方に聞いていただこうというのが主眼なのです。どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未来・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・多少書を読み思索にも耽った私には、時に研究の便宜と自由とを願わないこともなかったが、一旦かかる境遇に置かれた私には、それ以上の境遇は一場の夢としか思えなかった。然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・どんな困難な境遇に立っても客観的な立場を守って、的確な判断と作戦とを誤らなかった彼ではあった。彼の心の中にどっしりと腰を下して、彼に明確な針路を示したものは、社会主義の理論と、信念とであった。「ああ、行きゃしないよ。坊やと一緒に行く・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・信ずる者なく、却て自分を目し虚偽を伝うる者なりとして、爾余の報告までも概して信を失うに至る可し、日本の婦人は実に此世に生きて生甲斐なき者なり、気の毒なる者なり、憐む可き者なり、吾々米国婦人は片時も斯る境遇に安んずるを得ず、死を決しても争わざ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にあるものあり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざるある社会の情状を描き出すものこれなり。ここに理想的というは実験的に対していうも・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ わかりきった事の様だけれ共、ほんとうに心からつくづくと思うのは自分がそれをする事の出来ない様な境遇になってからである。「抜毛」のないものには、毛の抜けない気持よさが分らない――病気を生れて一度も仕た事のないものは達者で生きて居る有・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・己は遣って来る人の性質や伎倆や境遇を見て、その人に出来そうな為事を授けるのだ。それで成功したものが、これまでに随分あるよ。妻がいつも傍で聞いていてそういうのだ。あなたそんなにお金になるような事を沢山知っていらっしゃるなら、御自分で少しして御・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・性原理としてどうして世界観念へ同等化し、どうして原始的顕現として新感覚がより文化期の生産的文学を高揚せしめ得るかと云うことに迄及ばんとしたのであるが、それはまた自ら別個の問題となって現れなくてはならぬ境遇を持つが故に、先ず茲で筆を擱く。・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・裏に住む無恥な女を描き、性慾の衝動に動く浮薄な男を描き、あるいは山国海辺、あるいは大都会小都会の風物情緒を描く時には、それがあらゆる階級の男女や東西南北の諸地方を材料とするにかかわらず、またそれぞれの境遇や土地をおのおのその特性によって描い・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫