・・・僕は君も知っている通り、元来体も壮健じゃない。その上僕は妻を愛そうと思っていても、妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、抑僕の愛なるものが、相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。だ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健そうで、口許のしまったは可いが、その唇の少し尖った処が、化損った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌がある。手織縞のごつごつした布子に、よれよれの半襟で、唐縮緬の帯を不状に鳩胸に高・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・七左 壮健とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。白糸 難有う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。七左 はいはい。白糸 それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお幾人。七左 二人じゃ・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
上 秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園のベンチに腰をおろして休んでいる。老人とは言うものの、やっと六十歳で足腰も達者、至って壮健のほうである。 日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。 附言する。かかる全き放心の後に来る・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。こ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それにもかかわらず雪ちゃんは壮健で至って元気のよい子であった。利ちゃんが何かいたずらでもした時に叱りつける声はどうしてこの細いかよわい咽から出るのかと思うようで、何か御使いでも云いつけらるると飛鳥のように飛んで出て疾風のごとく帰って来る。こ・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・今日猶まことに壮健である財閥の七変化的存在への助力。戦時利得税、財産税についての解説一つでも真面目に聴いたらば、人民は、曖昧な日本的薄笑いを口辺に浮べてはいないと思う。貿易局の頭に三井財閥を坐らせている政府。銀行、大企業が、9/10を所有し・・・ 宮本百合子 「逆立ちの公・私」
・・・その心理のうねりの間に文学の胚種は護られているのだけれど、文学の壮健な生い立ちのためには文学を導く心理そのものを時々はきびしく吟味してみるのがすべての作家の責任でもあると思う。〔一九四一年六月〕・・・ 宮本百合子 「作品の主人公と心理の翳」
・・・今はまるで壮健で子供の親になっている弟も五つ六つの頃はギプスをはめて歩いていたりしたのであったから。 昨今ひとめで新入生とわかる子供たちを見ると、まあまあ、御苦労様だった、とその子の親をもこめて思う気持になるのは、私ひとりの感情ではない・・・ 宮本百合子 「新入生」
出典:青空文庫