・・・「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯を調べて貰った話は?」「上海でかい?」「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」 彼は僕の顔を覗きこむようにし、何か皮肉に微笑してい・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・自分の考えでは温浴のために血行がよくなり、肉体従って精神の緊張が弛んで声帯の振動も自由になるのが主な原因であるまいかと思う。緊張した時には咳払いをしなければ声が出にくいのは誰も知る通りである。いつかベルリンで見た歌劇で幕があくとタンホイゼル・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・しかしそうかと言っていわゆる音楽者のほうでは楽器や人間の声帯の発する音以外のものはいっさい取り扱わないのであるから、連句はもちろん音楽者からも顧みられない。 舞踊と連句とも、やはりその音楽的要素においてかなりよく似た点があると思うのであ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・吾思う人の為めにと箸の上げ下しに云う誰彼に傚って、わがクララの為めにと云わぬ事はないが、その声の咽喉を出る時は、塞がる声帯を無理に押し分ける様であった。血の如き葡萄の酒を髑髏形の盃にうけて、縁越すことをゆるさじと、髭の尾まで濡らして呑み干す・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・数ヶ月の間、私の声帯はほとんど運動する機会がなかった。また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の所有に属するかは、多分、典獄か検事局かに属するんだろう――知らなかったが、私達の所有は断乎として禁じられてい・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫