・・・ 青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁が五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……「じゃそれでいよいよけりがついたと・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばか・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・上げて来る潮で波が大まかにうねりを打って、船渠の後方に沈みかけた夕陽が、殆ど水平に横顔に照りつける。地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・たとえば、ちょっとした空地に高さ一丈ぐらいの木が立っていて、それに日があたっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁いある人にした上・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・画工 (枠張のまま、絹地の画を、やけに紐からげにして、薄汚れたる背広の背に負い、初冬、枯野の夕日影にて、あかあかと且つ寂……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖に突掛くる状、疲切ったる樵夫畜生、状を見やがれ。声に驚き、且つ活け・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 一つの乳牛に消化不良なのがあって、今井獣医の来たのは井戸ばたに夕日の影の薄いころであった。自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことに・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・侍女たちが手に手を取って投げる金銀の輝きと、お姫さまの赤い着物とが、さながら雲の舞うような、夕日に映る光景は、やはり陸の人々の目に見られたのです。「お姫さまの船が、海の中に沈んでしまったのだろうか。」と、陸では、みんなが騒ぎはじめました・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ガランとした広い会所の窓ガラスには、赤い夕日がキラキラ輝いたが、その光の届かぬ所はもう薄暗い。 私はまた当もなくそこを出た。するうちに、ボツボツ店明が点きだす。腹もだんだん空いてくる。例のごとく当もなく彷徨歩いていると、いつの間にか町外・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 雪の夜より七日余り経ちぬ。夕日影あざやかに照り四国地遠く波の上に浮かびて見ゆ。鶴見崎のあたり真帆片帆白し。川口の洲には千鳥飛べり。源叔父は五人の客乗せて纜解かんとす、三人の若者駈けきたりて乗りこめば舟には人満ちたり。島にかえる娘二人は・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 二人が立っていたのは山際だった。 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫