・・・そう云えば成程頭の上にはさっきよりも黒い夕立雲が、一面にむらむらと滲み渡って、その所々を洩れる空の光も、まるで磨いた鋼鉄のような、気味の悪い冷たさを帯びているのです。新蔵は泰さんと一しょに歩きながら、この空模様を眺めると、また忌わしい予感に・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソンでも海は海だ。風はなくとも夕されば何処からともなく潮の香が来て、湿っぽく人を包む。蚊柱の声の様に聞・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒、鬱散のそとあるきも出来候との事、御安心下され度候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・……………………………………………… 辻町は夕立を懐うごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」「ええ、お嫁に行ってから、あと……」・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 男は、それを持って帰る途中夕立にあいました。 もう、そのときは、そんな木どころではありません。木などは、どうでもよかったのです。友だちの家に頼って、雨のやむまで待って、帰りには、その無花果の鉢を預けてゆきました。 幾月も、幾年・・・ 小川未明 「ある男と無花果」
・・・ 十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝ていた。 しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・だけど今時分の夕立なんて、よっぽど気まぐれだ。」と亭主が言った。 二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光は赤くかすかに、陰は暗くあまねくこのすすけた土間をこ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・それは、地平線の隅々からすべての烏が集って来たかと思われる程、無数に群がり、夕立雲のように空を蔽わぬばかりだった。 烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念くかきさがしていた。 その群は、昨日・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、ひょろ松檜葉などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何とも云えぬすがすがしさを添えている。主人は庭を渡る微風に袂を吹かせながら、おのれの労働が為り出した快・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・そうだ、丁度あと三日という日の午後、夕立がやってきた。「干物! 干物!」 となりの家の中では、バタ/\と周章てゝるらしい。 しめた! 俺はニヤリとした。それは全く天裕だった。――今日は忘れるぞ。 雨戸がせわしく開いて、娘さん・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫