・・・にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・とうとう浴衣の袖で、素早く顔の汗を拭い、また少し歩いては、人に見つからぬよう、さっと袖で拭い拭いしているうちに、もう、その両袖ながら、夕立に打たれたように、びしょ濡れになってしまいました。博士は、もともと無頓着なお方でございましたけれども、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。「あ、そんなら、あたし、甘栗を買って行かなくちゃ。おばさんがね、たべたいたべたい言ってたの。」その宿の老妻に、かず枝は甘えて・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ハロルド、清らなる一行の詩の作者、たそがれ、うなだれつつ街をよぎれば、家々の門口より、ほの白き乙女の影、走り寄りて桃金嬢の冠を捧ぐとか、真なるもの、美なるもの、兀鷹の怒、鳩の愛、四季を通じて五月の風、夕立ち、はれては青葉したたり、いずかたよ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・士の亡骸が運び込まれたのを見ても彼女は気絶もせず泣きもしなかったので、侍女たちは、これでは公主の命が危ういと言った、その時九十歳の老乳母が戦士の子を連れて来てそっと彼女のひざに抱きのせた、すると、夏の夕立のように涙が降って来た」というくだり・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 翌日の夕方は空もよくはれ夕立のおそれも無さそうであるし、風も涼しくて漫歩には適当であったから、妻に五人の子供を連れさして銀座へ遊びにやった。末の二人はどんな好いところへ行くかと思われるように喜んで、そして自分等の好みで学校通いの洋服を・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄を引いて人の近かぬよう。私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 午後に夕立を降して去った雷鳴の名残が遠く幽に聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す水神の森の彼方に浮んでいるというような時分、試に吾妻橋の欄干に佇立み上汐に逆って河を下りて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・これによって三囲堤の下にあった葛西太郎という有名な料理屋は三下りの俗謡に、「夕立や田をみめぐりの神ならば、葛西太郎の洗鯉、ささがかうじて狐拳。」と唱われていたほどであったのが、嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸山谷堀の入口なる川口屋お直の店の・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫