・・・実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那の後、それが不思議でも何でもない、ただの桜だっ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・うす暗い中に、その歩衝と屏風との金が一重、燻しをかけたように、重々しく夕闇を破っている。――僕は、この簡素な舞台を見て非常にいい心もちがした。「人形には、男と女とあってね、男には、青頭とか、文字兵衛とか、十内とか、老僧とか云うのがある。・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・――ちょうどその途端に女湯の暖簾をあげて、夕闇の往来へ出て来たのは、紛れもないお敏でした。なりはこの間と変りなく、撫子模様のめりんすの帯に紺絣の単衣でしたが、今夜は湯上りだけに血色も美しく、銀杏返しの鬢のあたりも、まだ濡れているのかと思うほ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ たかは、黒雲に、伝令すべく、夕闇の空に翔け上りました。古いひのきは雨と風を呼ぶためにあらゆる大きな枝、小さな枝を、落日後の空にざわつきたてたのであります。 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ふり向くと、夕闇の中に、老人の姿は消えて、黒い箱だけが、いつまでも砂の上にじっとしていました。 夜中に、目をさますと、すさまじいあらしでした。海は、ゴウゴウと鳴っていました。青年は、待ちに待った船が、遠くから持ってきてくれた箱のことを思・・・ 小川未明 「希望」
・・・ 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。 電燈をつけて、給仕なしの夕飯をぽつねんと食べ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・凍えた指の間の煙草の火が夕闇のなかで色づいて来た。その火の色は曠漠とした周囲のなかでいかにも孤独であった。その火を措いて一点の燈火も見えずにこの谿は暮れてしまおうとしているのである。寒さはだんだん私の身体へ匍い込んで来た。平常外気の冒さない・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・地平線上は灰色の雲重なりて夕闇をこめたり。そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ萌え出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久に逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢もわれもこ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしやと坐を譲りつ。夕闇の風、軽ろく雨を吹けば一滴二滴、面を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。 その後教師都に帰りてより幾年の月日経ち、ある冬の夜、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫