・・・上げて来る潮で波が大まかにうねりを打って、船渠の後方に沈みかけた夕陽が、殆ど水平に横顔に照りつける。地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・帰路夕陽野にみつ』 自分は以上のほかなお二、三編を読んだ。そしてこれを聴く小山よりもこれを読む自分の方が当時を回想する情に堪えなかった。 時は忽然として過ぎた、七年は夢のごとくに経過した。そして半熟先生ここに茫然として半ば夢からさめ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・それで尺八を吹く男の腰から上は鮮やかな夕陽に照されていたのである。 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮やかな日景は遠村近郊小丘樹林を隈なく照らしている、二人の背はこの夕陽をあびてその傾いた麦藁帽子とその白い湯衣地とを真ともに照りつけられている。 二人とも余り多く話さ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・円錐形にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯れ草が一面に夕陽を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・悪の如く考えており、徒然草をさえ、余り良いものじゃない、と評したというほどだから、随分退屈な旅だったろうが、それでもまだしも仕合せな事には少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の旅中の楽にして、然として夕陽の山路や暁風の草径をあるき廻ったので・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・黒いゲートルを巻いた、ゴム足袋の看守が両手を後にまわして、その側をブラ/\しながら何か話しかけていた……。夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来てい・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・それほどまでに酒を飲みたいものなのか。夕陽をあかあかと浴びて、汗は滝の如く、髭をはやした立派な男たちが、ビヤホオルの前に行儀よく列を作って、そうして時々、そっと伸びあがってビヤホオルの丸い窓から内部を覗いて、首を振って溜息をついている。なか・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・ 暁雲は、あれは夕焼から生れた子だと。夕陽なくして、暁雲は生れない。夕焼は、いつも思う。「わたくしは、疲れてしまいました。わたくしを、そんなに見つめては、いけません。わたくしを愛しては、いけません。わたくしは、やがて死ぬる身体です。けれ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつ・・・ 太宰治 「東京八景」
出典:青空文庫