・・・の歎きをする久米、――そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。 この久米はもう弱気ではない。そしてその輝かしい微苦・・・ 芥川竜之介 「久米正雄」
・・・ おとよさんの行為は女子に最も卑しむべき多情の汚行といわれても立派な弁解は無論できない。しかしよくその心事に立ち入って見れば、憐むべき同情すべきもの多きを見るのである。 おとよさんが隣に嫁入ったについては例の媒妁の虚偽に誤られた。お・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・二葉亭は多情多恨で交友間に聞え、かなり艶聞にも富んでいたらしいが、私は二葉亭に限らず誰とでも酒と女の話には余り立入らんから、この方面における二葉亭の消息については余り多く知らない。ただこの一夜を語り徹かした時の二葉亭の緊張した相貌や言語だけ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。 人間の価値はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・多感多情であった三十何年の生涯をその晩ほど想い浮べたことはなかったのである。 寝苦しさのあまりに戸を開けて見た頃は、雨も最早すっかり止んでいた。洗ったような庭の中が何となく青白く見えるは、やがて夜が明けるのであろう。「短夜だ」 ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・もっとも、多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえて、そこがまた、女に好かれる所以でもあるのだがね。男振りがよくて、金があって、若くて、おまけに道徳的で優しいと来たら、そりゃ、もてるよ。当り前の話だ。お前のほうでやめるつもりでも、・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ 女というものをも、トルストイはツルゲーネフの考えていたように、純情、献身、堅忍と勇気とに恵まれたもの、その気まぐれ、薄情、多情さえ男にとって美しい激情的な存在という風に理想化して理解してはいない。もっと動物的に、或は愚劣に、或は恐ろし・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・しかも彼は少数の物象にとどまることをしないで、彼を取り巻く無数の物象に、多情と思えるほどな愛情をふり撒く。『地下一尺集』の諸篇はこの多情な、自然及び芸術との「情事」の輝かしい記録である。伊豆の海岸。江戸。京、大阪。長崎。奈良。北京。徐州。洛・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫