・・・病人も夜長の枕元に薬を煮る煙を嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。 秋は益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、や・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる鬼界が島へ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。ただわたしの話の取り柄は、この有王が目のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・秋の夜長の闇が、この辺を掩うてしまう。別荘の周囲が何となく何時もより広いような心持がする。 その内全く夜になった。犬は悲しげに長く吠えた。その声はさも希望のなさそうな、単調な声であった。その声を聞くものは、譬えば闇の夜が吐く溜息を聞くか・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・を冬の夜長の催眠剤のつもりで読んでみた。読んでいるうちに実に意外にも今を去る二千数百年前のギリシア人が実に巧妙な方法でしかも電波によって遠距離通信を実行していたという驚くべき記録に逢ってすっかり眠気をさまされてしまったのである。尤も電波とは・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・ こんなくだらぬことを赤白両派に分かれて両方で言い合っていれば、秋の夜長にも話の種は尽きそうもない。 手ぬぐい一筋でも箸一本でも物は使いよう次第で人を殺すこともできれば人を助けることもできるのは言うまでもないことである。 おとぎ・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・ 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠としていたB家の伯母は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ マッチの軸木を並べてする色々の西洋のトリックを当時の少年雑誌で読んではそれを実演して友達や甥などと冬の夜長を過ごしたものである。 まだ少年雑誌などというものの存在を知らなかった頃の冬夜の子供遊びにはよく「火渡し」「しりつぎ」をやっ・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・彼が殊更に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴の音凉しき夏の夕よりも、虫の音冴ゆる夜長よりも、かえって底冷のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方近く、この一間の置炬燵に猫を膝にしながら、所在なげに生欠伸をかみしめる時であ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・秋の夜長に……こや忍藻」にっこりわらッて口のうち、「昨夜は太う軍のことに胸なやませていた体じゃに、さてもここぞまだ児女じゃ。今はかほどまでに熟睡して、さばれ、いざ呼び起そう」 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵にあッた薙刀・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫