・・・夜になると間もなく、板倉佐渡守から急な使があって、早速来るようにと云う沙汰が、凶兆のように彼を脅したからである。夜陰に及んで、突然召しを受ける。――そう云う事は、林右衛門の代から、まだ一度も聞いた事がない。しかも今日は、初めて修理が登城をし・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ と夜陰に、一つ洞穴を抜けるような乾びた声の大音で、「何を売るや。」「美しい衣服だがのう。」「何?」 暗を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が芬とする。 六 鼠色の石持、黒い袴を穿いた・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 紫玉は胸が轟いた。 あの漂泊の芸人は、鯉魚の神秘を視た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、唾、涎の臭い乞食坊主のみではなかったのである。「……あの、三味線は、」 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消えるように音が留・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と人を目詰むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一容体にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻りしが、俄然、崩折れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋りて、血を吐く一声夜陰を貫き、「殺します、旦那、私はも・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ この、もの淑なお澄が、慌しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段を踏立てて、かかる夜陰を憚らぬ、音が静寂間に湧上った。「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」 と下から上へ投掛け・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・丁度、西南戦争の後程もなく、世の中は、謀反人だの、刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり、少しく門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家の縁の下からは、夜陰に主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄が畳を貫いて閃き出るか計られぬと・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 支那蕎麦屋の夜陰に吹き鳴す唐人笛には人の心を動す一種の哀音がある。曾て場末の町の昼下りに飴を売るものの吹き歩いたチャルメラの音色にも同じような哀愁があったが、これはいつか聞かれなくなった。按摩の笛の音も色町を除くの外近年は全く絶えたよ・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐へかくす。敲く音は益逼って絶間なく響く。開けぬか・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・或は夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 祖母が、下を向き、変に喉にからんだようなせき払いをしながら強く煙管を炉ぶちでたたく音が、さびしい夜陰に響いた。 十二時過て、私はいつも通り一人奥に寝た。祖母と八十二のおばあさんは廊下越しに離れた仏間に、逃げて来た母子は女中と茶の間・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
出典:青空文庫