・・・――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・A 夜霧が下りているぜ。 ×声ばかりきこえる。暗黒。Aの声 暗いな。Bの声 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だった。Aの声 ふきあげの音がしているぜ。Bの声 うん。もう・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・その声が遠い国に多くの人がいて口々に哀歌をうたうともきければ、森かげの梟の十羽二十羽が夜霧のほのかな中から心細そうになきあわすとも聞える。ただ、野の末から野の末へ風にのって響くそうだ。なにものの声かはしらない。ただ、この原も日がくれから、そ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・ 人通りの絶えた四条通は稀に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。両側の店はゴミ箱を舗道に出して戸を鎖してしまっている。所どころに嘔吐がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったと・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・あの人の夜霧に没する痩せたうしろ姿を見送り、私は両肩をしゃくって、くるりと廻れ右して、下宿に帰って来た。なにがなしに悲しい。女性とは、所詮、ある窮極点に立てば、女性同士で抱きあって泣きたくなるものなのか。私は自身を不憫なものとは思わない。け・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・丸の内の夜霧がさらにその空想を助長したのでもあろう。 それにしても、あれはやはり電車切符ぐらいをやったほうがよかったような気がする。もしだまされるならだまされても少しも惜しくはなかったであろう。そんな芝居をしてまでも、たった一枚の切符を・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・大都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・淡い夜霧が草の葉末におりて四方は薄絹に包まれたようである。どこともなく草花のような香がするが何のにおいとも知れぬ。足もとから四方にかけて一面に月見草の花が咲き連なっている。自分と並んで一人若い女が歩いているが、世の人と思われ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 前面には湖水が遠く末広がりに開いて、かすかに夜霧の奥につづいていた。両側の岸には真黒な森が高く低く連なって、その上に橋をかけたように紫紺色の夜空がかかっていた。夥しい星が白熱した花火のように輝いていた。 やがて森の上から月が上って・・・ 寺田寅彦 「夢」
出典:青空文庫