・・・ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太」と云う烏猫を飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のお上の一張羅の上へ粗忽をしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ でもとにかくそう思うと私はもう後も向かずに無我夢中で岸の方を向いて泳ぎ出しました。力が無くなりそうになると仰向に水の上に臥て暫らく気息をつきました。それでも岸は少しずつ近づいて来るようでした。一生懸命に……一生懸命に……、そして立泳ぎ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ で、密と離れた処から突ッ込んで、横寄せに、そろりと寄せて、這奴が夢中で泳ぐ処を、すいと掻きあげると、つるりと懸かった。 蓴菜が搦んだようにみえたが、上へ引く雫とともに、つるつると辷って、もう何にもなかった。「鮹の燐火、退散だ」・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・舟津の家なみや人のゆききや、馬のゆくのも子どもの遊ぶのも、また湖水の深沈としずかなありさまやが、ことごとく夢中の光景としか思えない。 家なみから北のすみがすこしく湖水へはりだした木立ちのなかに、古い寺と古い神社とが地つづきに立っている。・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているの・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 女房は人けのない草原を、夢中になって駈けている。ただ自分の殺した女学生のいる場所からなるたけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 子供らはいろんなことをいって、議論をしましたが、また、そんなことは忘れてしまって、みんなは遊びに夢中になりました。 ひとり、松蔵という少年が、この中におりました。この少年の家は、貧乏でありました。彼は、他の子供らが騒いだり、駆けた・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 後に新造は、「お光がね、金さんにぜひどうかいいのがお世話したいと言って、こないだからもう夢中になって捜してるのさ」「どうかそんなようで……恐れ入りますね」「今日ちょうど一人あったんだが……これは少し私の続き合いにもなってるから・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・などという言い方は、たぶん講義録で少しは横文字をかじった影響でしょうが、その講義録にしたところで、最初の三月分だけ無我夢中で読んだだけ、あとはもう金も払いこまず、したがって送ってもこなかった。が、私はえらくなろうという野心――野心といったの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫