・・・霧につつまれて歩く人を見るとみんな、何か楽しい思いにふけっているか、悲しい思いに沈んでいるかしているようで、自分もまた何とはなしに夢心地になって歩いた。 九段坂の下まで来ると、だしぬけに『なんだと、酔っている、ばか! 五合や一升の酒に酔・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方の山影鮮やかに、国境を限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、銀の鎖の末は幽なる空に消えゆく雪の峰など、みな青年が心を夢心地に誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・大津は自分の書いた原稿を見つめたままじっと耳を傾けて夢心地になった。『こんな晩は君の領分だねエ。』 秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないでいる。風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶っ・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りには山車小屋をしつらい、御神輿の御仮屋をもしつらいたり。同じく祭りのための設けとは知られなが・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ と夢心地ながらうきうきした。 疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。「阿呆」 スワは短く叫んだ。 ものもわからず外へはしって出た。 吹雪! それがどっと顔をぶった。思わずめためた坐って了・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・ 魚容は未だ夢心地で、「ああ、すみません。叱らないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかと怯・・・ 太宰治 「竹青」
・・・そんなら皆さん御機嫌よくも云った積りなれどやゝ夢心地なればたしかならず。玄関を出れば人々も砂利を鳴らしてついて来る。用意の車五輌口々に何やら云えどよくは耳に入らず。から/\と引き出せば後にまた御機嫌ようの声々あまり悪からぬものなり。見返る門・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・二人とも唯だ夢心地に佇んで居ました。『心にもない事を云うわね、彼女は。』 子を抱いた女の彼の可哀相な人が悄然として、お帰りの後から斯う声を掛けて、彼女の方がまた睨んで御居ででした。『あの、貴方。』と、うッて変った優しい御声は、洋・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・ 習慣的に夜着から手を出して赤い掛布団の上をホトホトと叩きつけてやりながらも、ぬくもい気持で持ち上げた頭をフラフラと夢心地で揺り未だ寝て居たい気持と、皆困って居るのだからもう起きてやりましょうと思う心とが罪のない争闘を起し始めたのを感じ・・・ 宮本百合子 「二月七日」
出典:青空文庫