・・・書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・こういう外人の教師と共に、まだ島田重礼先生というような漢学の大儒がおられた。先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐に一服ふかして、それから講義を始められることなどもあった。私共の三年の時に、ケーベル先生が来られた。先生はその頃もう四十・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・来、足利の末葉、戦国の世にいたるまで、文字の教育はまったく仏者の司どるところなりしが、徳川政府の初にあたりて主として林道春を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したりといえども、全国の士人・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・貝原益軒翁が、『養生訓』を著わし、『女大学』を撰して、大いに世の信を得たるは、八十の老翁が自身の実験をもって養生の法を説き、誠実温厚の大儒先生にして女徳の要を述べたるがゆえに然るのみ。もしもこの『養生訓』、『女大学』をして、益軒翁以下、尋常・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男であった安井仲平のところへ、十六歳の時、姉にかわって進んで嫁し、質素ながら耀きのある生涯を終った佐代子という美貌の夫人の記録である。「と・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・ 浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。 飫肥藩では仲平を相談中とい・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫