・・・という一種の技巧論を信じているから、例えば映画でも、息も絶え絶えの状態にしては余りに声も大きく、言葉も明瞭に、断末魔の科白をいやという程喋ったあげく、大写しの中で死んで行く主演俳優の死の姿よりも、大部屋連中が扮した、まるで大根でも斬るように・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・これと反対の場合は映画における大写し、いわゆるクローズアップの場合である。この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ、その筋肉の微細な運動までが異常に郭大される。指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめい・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・の最後の幕で、塹壕のそばの焦土の上に羽を休めた一羽の蝶を捕えようとする可憐なパウルの右手の大写しが現われる。たちまち、ピシンと鞭ではたくような銃声が響く。パウルの手は瞬時に痙攣する、そうして静かに静かに力が抜けて行くのである。 音と光と・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ただ錯雑した混乱のあらしの中に、時々瞬間的に映出される白馬のたてがみを炎のように振り乱した顔の大写しは「怒り」の象徴としてかなりに強い効果をもっていたようである。「西部戦線異状なし」は、今日の映画としては、別にこれといって頭に残るほどの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・同じようにこの呼吸のうまい他の一例は、停車場の駅長かなんかの顔の大写しがちょっと現われる場面である。実になんでもないことだが、あすこの前後の時間関係に説明し難い妙味がある。 女中が迎えに来て荷馬車で帰る途中で、よその家庭の幸福そうな人々・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・のきわめて鮮明な大写しを見た、その「科学的なひとで」のほうにかえってはるかに美しく真実な詩があった。マン・レイの「ひとで」の中にも少しばかりこれに似た実写が插入されているが、前者とは比較にならぬほど美しからぬものに見えた。この「ひとで」はあ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・たとえば大写しのヒロインの目の瞳孔の深い深い奥底からヒロイン自身が風船のように浮かび上がって出て来たり、踊り子の集団のまん中から一人ずつ空中に抜け出しては、それが弾丸のように観客のほうへけし飛んで来るようなトリックでも、芸術的価値は別問題と・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・あの大きな口の中の造作でも、それが大写しになってそれだけになって現われるときに始めて吾々は十分な注意をそれに集中することが出来るのである。それは外に注意を牽制すべき何物もないからである。それだからたとえ手近に動物園がある場合でも動物園の映画・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・しかし物を言っている顔の大写しなどの場合には、この耳と目との空間知覚の齟齬が多少は起こるかもしれない。これは少し詳しく実験してみるとおもしろいと思う。 またたとえば映画の中で一人の男が暗殺者のために思いがけなく射殺されるところがあるとす・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・ むこうから来てすれ違う一人一人の通行人の顔が大写しになってかぶさって来るように感じる位ののろさなのだ。――御者奴! それは、御者も商売からまるで間違った推測をしたのではなかった。この外国女は、第一ひどく急いでいるんだ、芝居へ行こう・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
出典:青空文庫