・・・理窟は凡に立到り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。言い古した言い方に従えば、建設の為の破壊であるという事を忘れて、破壊の為に破壊している事があるものである。・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・麦やや青く、桑の芽の萌黄に萌えつつも、北国の事なれば、薄靄ある空に桃の影の紅染み、晴れたる水に李の色蒼く澄みて、午の時、月の影も添う、御堂のあたり凡ならず、畑打つものの、近く二人、遠く一人、小山の裾に数うるばかり稀なりしも、浮世に遠き思あり・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 成程、馬鹿々々しい……旅客は、小県、凡杯――と自称する俳人である。 この篇の作者は、別懇の間柄だから、かけかまいのない処を言おう。食い続きは、細々ながらどうにかしている。しかるべき学校は出たのだそうだが、ある会社の低い処を勤めてい・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・トヲオモイマスト、何ダカオカシクナリマス病気ヲオタズネ下サイマシタガ、コレハ重イトイエバ重イ、軽イトイエバ軽イ、ドチラニモナリマスノデ、カノ本復スルカト思エバ全快スノ方ノ組デス、当所へ参リマス前、凡ソ半年ホドヲ鵠沼ニ辛棒シテオリマシタガ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・現在に於いても、大凡の芸術は、これまでの文化の擁護と見做されていると見るのが至当であろう。 然し敢て言うが、これらは私の求むるところの詩ではない。私達の詩は疑から始まっている。今迄の詩が休息の状態、若しくは、静息の状態に足を佇めているも・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・我々が懐く凡ゆる感情、例えば怒り、憎しみ、または愛にもせよ、凡ての感激、冒険といったようなものは、人生及び自然から生起してくる刺戟である。この人生及び自然の存在を措いて、現実はない筈である。それであるから現実に徹することは、自己の生活に徹す・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ 六 ――凡そ何が醜悪だと言っても、川那子メジシン新聞広告ほど、醜悪なものはまたとあるまい。 丹造は新聞広告には金目を惜しまず、全国大小五十の新聞を利用して、さかんに広告を行った。一頁大の川那子メジシンの広告・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・けれども、決して、これまでの日本の農民生活を、十分にその特殊性において、さま/″\な姿で描き得ていると自負することは出来ない。凡、事実は反対に近い。むしろ、払われた努力があまりにすくなかった。農民の生活は従来、文学に取りあげられた以上にもっ・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼の前のありさま忽ち変りて、山の姿、樹立の態も凡ならず面白く見ゆるが中に、小き家の棟二つ三つ現わる。名にのみ聞きし石竜山の観音を今ぞ拝み奉ると、先ず境内に入りて足を駐めつ、打仰ぎて四辺を見るに、高さはおよ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「それじゃあ、家の方は大凡見当がついたというものだね」と相川は尋ねた。「そうサ」「ははははは。原君と僕とは大分違うなあ。僕なら先ず事業を探すよ――家の方なんざあどうでも可い」「しかし、出て来て見たら、何かまた事業があるだろう・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫