・・・ 右斜めに、鉾形の杉の大樹の、森々と虚空に茂った中に社がある。――こっちから、もう謹慎の意を表する状に、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、草摺の断れたような襤褸の袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。 園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことあり・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。 横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・何某の邸の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。 学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。 と見・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 偶と紫玉は、宵闇の森の下道で真暗な大樹巨木の梢を仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。「ちょっと燈を、……」 玉野がぶら下げた料理屋の提灯を留めさせて、さし交す枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、「誰・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・橋詰の、あの大樹の柳の枝のすらすらと浅翠した下を通ると、樹の根に一枚、緋の毛氈を敷いて、四隅を美しい河原の石で圧えてあった。雛市が立つらしい、が、絵合の貝一つ、誰もおらぬ。唯、二、三町春の真昼に、人通りが一人もない。何故か憚られて、手を触れ・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗の竹藪と、槻の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。狭き土間、貧しき卓子に向って腰掛けたる人形使――辺栗藤次、鼻の下を横撫をしながら言う。うしろ向のままなり。人形使 お旦那――お旦那――もう・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・たち拠らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家の人となりを語り、そうして、その縊死のあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この「狂言の神」という一篇の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・三 この男はどこから来るかと言うと、千駄谷の田畝を越して、櫟の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、樫の大樹に連なっている小径――その向こうをだらだらと下った丘陵の・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・彼は近所のあらゆる曲がり角や芝地や、橋のたもとや、大樹のこずえやに一つずつきわめて格好な妖怪を創造して配置した。たとえば「三角芝の足舐り」とか「T橋のたもとの腕真砂」などという類である。前者は川沿いのある芝地を空風の吹く夜中に通・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
出典:青空文庫