・・・この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板が目触りだというので、椿岳は工風をして廂を少し突出して、羽目板へ直接にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この天人の画は椿岳の名物の一つに数えられていたが、惜しい哉・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・梯の子十五、六ばかりを踏みて上れば、三十三天、夜摩天、兜率天、とうりてんなどいうあり、天人石あり、弥勒仏あり。また梯子を上りて五色の滝、大梵天、千手観音などいうを見る。難界が谷というは窟の中の淵ともいうべきものなるが、暗くしてその深さを知る・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その雲の国に徂徠する天人の生活を夢想しながら、なおはるかな南の地平線をながめた時に私の目は予想しなかったある物にぶつかった。 それははるかなはるかな太平洋の上におおっている積雲の堤であった。典型的なもくもくと盛り上がったまるい頭を並べて・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・ その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔けているのを私は見ました。(とうとうまぎれ込んだ、人の世界私は胸を躍らせながら斯う思いました。 天人はまっすぐに翔けているのでした。(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・をかたに天女を妻とした伯龍が、女の天人性に悩まされて、三ヵ月の契約をこちらから辞そうとしたら「天に偽りなきものを」と居つづけられて、つよい神経衰弱に陥ったという物語は、何と私たちを笑わせ、そこにある一つの実際を肯かせるだろう。 しかしな・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・美人といえばそれまでですが、僕はあんな高尚な、天人のような美人は見た事がないんです。先下々の者が御挨拶を申上ると、一々しとやかにお請をなさる、その柔和でどこか悲しそうな眼付は夏の夜の星とでもいいそうで、心持俯向いていらっしゃるお顔の品の好さ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・が人生を解き、黒岩氏の天人論が天と人との神秘を開いたる今日にも依然としてむずかしい。むずかしければこそ藤村君は巌頭に立ち、幾万の人は神経衰弱になる、新渡戸先生でさえ神経衰弱である、鮪のさし身に舌鼓を打ったところで解ける問題でない。魚河岸の兄・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫