・・・十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹にものういささや・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・が、あっと思ううちに今度は天秤捧を横たえたのが見事に又水を跳り越えた。続いて二人、五人、八人、――見る見る僕の目の下はのべつに桟橋へ飛び移る無数の支那人に埋まってしまった。と思うと船はいつの間にかもう赤煉瓦の西洋家屋や葉柳などの並んだ前にど・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、――その他あらゆる天秤の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語の good sense である。わたしの信ずるところによ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行いて、通りの煮染屋の戸口に、手拭を頸に菅笠を被った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤を下した処に行きかかって、鮮しい雑魚に添えて、つまといった形・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗いている……といった形。 ――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――「皆その御眷属が売って・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・荷車をひいてくるものもある。天秤の先へ風呂敷ようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手してくるもの、声高に元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動かと思われ、いよいよ自分の胸の中にも何かがわきかえる思いがするのである。 省・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・二人が一斗笊一個宛を持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあっ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・婿一人の小遣い銭にできやしまいし、おつねさんに百俵付けを括りつけたって、体一つのおとよさんと比べて、とても天秤にはならないや。一万円がほしいか、おとよさんがほしいかといや、おいら一秒間も考えないで……」「おとよさんほしいというか、嬶にい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・そしてそうした大きな鯉の場合は、家から出てきた髪をハイカラに結った若い細君の手で、掬い網のまま天秤にかけられて、すぐまた池の中へ放される。 私たちは池の手前岸にしゃがんで、そうした光景を眺めながら、会話を続けた。「いったい君は、今度・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・しかもこれらのいっさいを一束にしても天秤は俳諧連句のほうへ下がるであろう。 連句はその末流の廃頽期に当たって当時のプチブルジョア的有閑階級の玩弄物となったために、そういうものとしてしか現代人の目には映らないことになった。しかし本来はそれ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫