・・・万年博士が『天網島』を持って来て、「さんじやうばつからうんころとつころ」とは何の事だと質問した時は、有繋の緑雨も閉口して兜を抜いで降参した。その頃の若い学士たちの馬鹿々々しい質問や楽屋落や内緒咄の剔抉きが後の『おぼえ帳』や『控え帳』の材料と・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・平を洩らす 豈翔だ路傍狗鼠を誅するのみならん 他年東海長鯨を掣す 船虫閉花羞月好手姿 巧計人を賺いて人知らず 張婦李妻定所無し 西眠東食是れ生涯 秋霜粛殺す刀三尺 夜月凄涼たり笛一枝 天網疎と雖ども漏得難し 閻王廟裡擒に就く・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・全く運命の網である。天網という言葉は実にうまい言葉を考えついたものである。押し破ろうとして一方を押せば、押したほうは引っ込んで反対側が自分をしめつける。 大蛇が箱から逃げ出す場面で猿や熊の恐怖した顔のクローズアップを見せる。あの顔がよく・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・然し真近く進んで、書生の田崎が、例の漢語交りで、「坊ちゃん此の通りです。天網恢々疎にして漏らさず。」と差付ける狐を見ると、鳶口で打割られた頭蓋と、喰いしばった牙の間から、どろどろした生血の雪に滴る有様。私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫