・・・だから時たまプラットフォオムにお嬢さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、――それさえ痛切には感じた訣ではない。保吉は現に売店の猫が二三日行くえを晦ました時にも、全然変りのない寂しさを感じた。もし鎮守・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。「どうか博士もまた二三日中に、もう一度御診察を願いたいもので、――」 戸沢は挨拶をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。「ええ、上る事はいつでも上りますが、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢な気分になって、馬の売買にでも多少の儲を見よう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 思わずあッといって失望した時、轟々轟という波の音。山を覆したように大畝が来たとばかりで、――跣足で一文字に引返したが、吐息もならず――寺の門を入ると、其処まで隙間もなく追縋った、灰汁を覆したような海は、自分の背から放れて去った。 ・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃を合わせるじゃあない、恋に失望したもののその苦痛というものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要らざる生命をながら・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・よいあんばいだなと思う心と、失望みたような心が同時にわく。湯は明いてますからとお袋がいうままに省作は風呂場へゆく。風呂はとろとろ火ながら、ちいちいと音がしてる。蓆蓋を除けて見ると垢臭い。随分多勢はいったと見える。省作は取りあえずはいる。はい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・それには、青木と田島とが、失望の恨みから、事件を誇張したり、捏造したりしたのだろう、僕が機敏に逃げたのなら、僕を呼び寄せた坊主をなぐれという騒ぎになった。僕の妻も危険であったのだが、はじめは何も知らなかったらしい。吉弥を案内として、方々を見・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間と・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・二たび呼んで見る、三たび呼んで見る、その時の失望が思いやられる。それが果してお母さんに分るであろうか。 私が、子供の代弁をして、お母さんたちに望むところは止むを得ざるかぎり、家にいてもらいたい、そしてやさしい返事をして下さい。日本の家庭・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・無名の人たちの原稿を読んでも、文章だけは見よう見真似の模倣で達者に書けているが、会話になるとガタ落ちの紋切型になって失望させられる場合が多い。小説の勉強はまずデッサンからだと言われているが、デッサンとは自然や町の風景や人間の姿態や、動物や昆・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
出典:青空文庫