・・・私は笹川の得意さを想うと同時に、そしてまた昨日からの彼に対する憤懣の情を和らげることはできないながらに、どうかしてH先生のような立派な方に、彼の例の作家風々主義なぞという気持から、うっかりして失礼な生意気を見せてくれなければいいがと、祈らず・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・吉田がその市場で用事を足して帰って来ると往来に一人の女が立っていて、その女がまじまじと吉田の顔を見ながら近付いて来て、「もしもし、あなた失礼ですが……」 と吉田に呼びかけたのだった。吉田は何事かと思って、「?」 とその女を見・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ や、それは、と善平はわれ知らず乗り出して、それは重々の上首尾で、失礼ながらあなたの機敏なお働きには、この善平いつもながら実に感服いたしまする。 ひらめき渡る辰弥の目の中にある物は今躍り上りてこの機を掴みぬ。得たりとばかり膝を進めて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「先刻は失礼しました」と自分は出来るだけ気を落着けて左あらぬ体に言った。「いいえどうしまして。色々心配をかけて済なかったね。帰る時お政さんに言って置いたことがあるが聞いておくれだったかね?」と何処までも冷やかに、憎々しげに言いながら・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・まだその時分は陶工の名なんぞ一ツだって知っていた訳では無かったが、ただ何となく気に入ったので切とこの猪口を面白がると、その娘の父がおれに対って、こう申しては失礼ですが此盃がおもしろいとはお若いに似ずお目が高い、これは佳いものではないが了全の・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「どうも失礼……今日は二人で山遊びに出掛けて……酩酊……奥さん、申訳がありません……」 学士は上り框のところへ手をついて、正直な、心の好さそうな調子で、詫びるように言った。 体操の教師は磊落に笑出した。学士の肩へ手を掛けて、助け・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ そこで井伏さんも往生して、何とかという、名前は忘れたが、或る小さいカフェに入った。どやどやと、つきものも入って来たのは勿論である。 失礼ながら、井伏さんは、いまでもそうにちがいないが、当時はなおさら懐中貧困であった。私も、もちろん・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・といって懐を撫でまわしている。失礼ではあったが自分たちの盆の餅をすすめて、そうしてこの人たちから新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ないほどに実によく似ていた。 橋を渡る頃はまた雨に・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・「先日は失礼しました。ふみちゃんは今どこにいるの」道太がきいた。「松山の伯父さんの病気見舞いといって、出てきたんですけれど」ふみ江は嗄れたような声でぐずっている子供をすかしながら答えた。 ふみ江の良人の家は在方であったが、学校へ・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫