・・・彼女は夫の飛び上るのを見たぎり、長椅子の上に失神してしまった。しかし社宅の支那人のボオイはこう同じ記者に話している。――半三郎は何かに追われるように社宅の玄関へ躍り出た。それからほんの一瞬間、玄関の先に佇んでいた。が、身震いを一つすると、ち・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を捉えた。陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入る・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・……… その夜も三更に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音も聞えない内陣には、円天井のランプの光が、さっきの通り朦朧と壁画を照ら・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・私はそのまま、そこに倒れて、失神してしまったのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて来た時には、あの呪うべき幻影ももう消えていたのでございましょう。妻は私をその書斎へ寝かして、早速氷嚢を額へのせてくれました。 私が正気・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・それが看護をしていた三人には、また失神したとでも思われたのでしょう。急に皆そわそわ立ち騒ぐようなけはいがし出しましたから、新蔵はまた眼を開くと、腰を浮かせかけていた泰さんが、わざと大袈裟に舌打ちをして、「何だ。驚かせるぜ。――御安心なさい。・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・娘は河添の窪地の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐を極めた辱かしめかたをしたのだと判った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子を広岡がこわすのを見たと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・僕とて民子の死と聞いて、失神するほどの思いであれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろおろしている所へ兄夫婦が出てきた。「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」 と云えば母は、かまわずに泣かしてお・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 妻子の水死後全然失神者となって東京を出てこの方幾度自殺しようと思ったか知れない。衣食のために色々の業に従がい、種々の人間、種々の事柄に出会い、雨にも打たれ風にも揉れ、往時を想うて泣き今に当って苦しみ、そして五年の歳月は澱みながらも絶ず・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・、万里の飛翔、一瞬、あまりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天、不吉な程に大きな黒アゲハ、もしくは、なまあたたかき毛もの蝙蝠、つい鼻の先、ひらひら舞い狂い、かれ顔面蒼白、わなわなふるえて、はては失神せんばかりの烈しき歔欷。婆さん、しだ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・も少し加減してくれるかと思いのほか、かの松の木の怪腕の力の限りを発揮して殴りつけたるものの如く、老生の両眼より小さき星あまた飛散致し、一時、失神の思いに御座候。かれもまた、なかなかの馬鹿者に候。以上は、わが武勇伝のあらましの御報に御座候えど・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫