・・・…… ――――――――――――――――――――――――― 就任の当日毛利先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮蔑の情は、丹波先生のあの失策があって以来、いよいよ級全体に盛んになった。すると、また、・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ それが失策だった。Fは黙ってちらりと眼を私の方に向けたが、それが涙で濡れていた。どんな場合でも、涙は私の前では禁物だった。敏感な神経質な子だから、彼はどうかすると泣きたがる。それが、泣くのが自然であるかもしれないが、私は非常に好かない・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・とにかく、この蜂谷の医院へ着いたばかりに桑畠を焼くような失策があって、三吉のような子供にまでそれを言われて見ると、いかに自分ばかり気の確かなつもりのおげんでも、これまで自分の為たことで養子夫婦を苦しめることが多かったと思わないわけにはいかな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・鬚だらけのお爺さんのおそろしい顔などを印刷するのは、たしかに政府の失策ですよ。日本の全部の紙幣に、私たちの母の女神の大笑いをしている顔でも印刷して発行したなら、日本のインフレーションは、ただちにおさまるというわけです。日本のインフレーション・・・ 太宰治 「女神」
・・・この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事ので・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・われわれの記憶にはこんな失策は有りがちであるが、このようなカメラの思いちがいは珍しい。活動映画のオーヴァーラップの技巧はつまり故意にこのカメラの記憶のアベレーションを利用して観客の心のアベレーションを誘発しようとするのであろう。このごろのア・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・ば河内山宗俊のごとく慌てて仰山らしく高頬のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策はしない。しかし結局はとうとうその場・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・また、少し感の悪いうっかり者が、とんでもない失策を演じながら当人はそれと気がつかずに太平楽な顔をしているのも、やはり涼しい顔の一種に数えられるようである。これなどは愛嬌のあるほうである。自分なども時々だいじな会議の日を忘れて遊びに出たり、受・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。町全体の神経は、そのことの危懼と恐怖で張りきっていた。美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。 始めてこのことに気が付いてから、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫