・・・ 言い棄てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然と、眉を軒げて、奈落から半空に向って、真直に立つ火の柱を見詰めていた。 四「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭さ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・前の世の耳語きを奈落の底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然としてこの微音を聞いている。戦も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ジャック・ロンドンが「奈落の人々」というルポルタージュを書いてロンドンの東の恐ろしい生活の細目を世界の前にひらいてみせた。イーストは一九二九年にもやっぱりイーストだった。そこからぬけ出しようのないばかりか、悪化してゆく貧困にしばりつけられた・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第八巻)」
・・・ 世の中が、平ったいものであったら、その突ぱなまで一束飛びに飛んで行って、そこから一思いに、奈落の底へ身でもなげたい様な気持になって居た。 恭二が良吉より先に帰って来ると、お君は何か涙声でボツボツと只気休めに、養母に頭を押えられ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・小さい女の子は気味わるそうに、舞台からすこし遠のいて、しかし眼はまばたきをするのを忘れて、熊谷次郎が馬にのって、奈落からせり上って来る光景を見まもった。せり上って来る熊谷次郎の髪も菊の花でできた鐙も馬もいちように小刻みに震動しながら、陰気な・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・力んで、印を結んだまま奈落へ沈むとおりに、個人個人は威容をくずさず没落した。歴史の波間に沈んだ。 文学者その他の文筆にたずさわる人々の間では著作家組合が考えられて来た。演劇関係の人々の間に、そういう専門家のかたまりのようなものはあってい・・・ 宮本百合子 「俳優生活について」
・・・そして「高等な学術を研究している自分の方こそ断然弓子に勝っているものと今まで自負していたのだが、允子はたちまち奈落に墜落したような気持になった。」実に執拗に意識されている作者の勝敗感と、「女は男あっての女で」あるというこの作者の動かぬ婦人観・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫