・・・ただまるまる肥った頬にいつも微笑を浮かべている。奉天から北京へ来る途中、寝台車の南京虫に螫された時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度と螫される心配はない。それは××胡同の社宅の居間に蝙蝠印の除虫菊が二缶、ちゃんと具・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・「私が歩哨に立っていたのは、この村の土塀の北端、奉天に通ずる街道であります。その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。すると木の上の中隊長が、――」「何、木の上の中隊長?」 参謀はちょいと目蓋を挙げた。「はい。中隊・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・縞の背広を着たK君はもとは奉天の特派員、――今は本社詰めの新聞記者だった。「どうです? 暇ならば出ませんか?」 僕は用談をすませた頃、じっと家にとじこもっているのはやり切れない気もちになっていた。「ええ、四時頃までならば。………・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
一 豚 毛の黒い豚の群が、ゴミの溜った沼地を剛い鼻の先で掘りかえしていた。 浜田たちの中隊は、昂鉄道の沿線から、約一里半距った支那部落に屯していた。十一月の初めである。奉天を出発した時は、まだ、満洲の平原に青い草が見えていた・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・この春、三月、君は奉天に来たね。奉天城内の四平街と云えば目抜きの場所だ。君覚えているだろう? 平生は、人間や洋車や馬車が雑沓しているところだ。三階、四階の青や朱で彩色した高楼が並んでいる。それが今はすっかり扉を閉め切って猫の仔一匹いない。一・・・ 黒島伝治 「防備隊」
・・・そうしてその翌晩はまた満州から放送のラジオで奉天の女学生の唱歌というのを聞いた。これはもちろん単純なる女学生の唱歌には相違なかったが、しかし不思議に自分の中にいる日本人の臓腑にしみる何ものかを感じさせられた。それはなんと言ったらいいか、たと・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・すると、奉天のパチパチが起って、あの辺一帯が大騒ぎになった。 異国情調を求めて来ていた群司次郎正は一躍、「ハルビン脱出記」の筆者となった。文中何というかと思うと「支那人の心情は根本的に獣である。これをよく知っているのはロシア人たちである・・・ 宮本百合子 「プロレタリア文学における国際的主題について」
・・・なんでも黒溝台の戦争の済んだ跡で、奉天攻撃はまだ始まらなかった頃だったそうだ。なんとか窩棚と云う村に、小川君は宿舎を割り当てられていたのだ。小さい村で、人民は大抵避難してしまって、明家の沢山出来ている所なのだね。小川君は隣の家も明家だと思っ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫