・・・なに、お前さんは紀の国屋の奴さんとわけがある……冗談云っちゃいけねえ。奴のようなばばあをどうするものかな。さましておいて、たんとおあがんなはいだと。さあそうきくから悪いわな。自体、お前と云うものがあるのに、外へ女をこしらえてすむ訳のものじゃ・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・それというのも奴さんも奴さんだが、奴さんのおふくろというのが俗にいう女傑なんで、あれでもなしこれでもなしとさまざま息子の嫁を探したあげく、到頭奴さんの勤めている工場の社長の家へ日参して、どうぞお宅のお嬢さんを伜の嫁にいただかせて下さいと、百・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・白崎とは駅まで一緒だったが、奴さん、改札口で手間取っているから置いて来たと照井は笑った。白崎は半時間経って帰った。「半時間も改札嬢と話してたのか」 三人がそろったので小隊長は大喜びだったが、オトラ婆さんは鬱々としていた。鶴さんが帰っ・・・ 織田作之助 「電報」
・・・ 喜助は、唐辛でえぶせば、奴さん、我慢が出来ずにこんこん云いながら出て来る。出て来た処を取ッちめるがいいと云う。田崎は万一逃げられると残念だから、穴の口元へ罠か其れでなくば火薬を仕掛けろ。ところが、鳶の清五郎が、組んで居た腕を解いて、傾・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ だものだから、ついうっかり、奴さんの云う事を飲み込もうとした。 涎でも垂らすように、私の眼は涙を催しかけた。「馬鹿野郎!」 私は、力一杯怒鳴った。セコンドメイトの猫入らずを防ぐと同時に、私の欺され易いセンチメンタリズムを怒・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・の家に出かけて行った。はいつものように長いくびをのばしたりちぢめたりしてかたいごみの多い土面をツッツいて居る。ごんぺい夫婦は草かりにでも行ったと見えて家の中はひっそりして居る。の奴さんは私の来たのを一向にごぞんじなくってツンとすましてござる・・・ 宮本百合子 「三年前」
森鴎外には、何人かの子供さんたちのうちに二人のお嬢さんがあった。茉莉と杏奴というそれぞれ独特の女らしい美しい名を父上から貰っておられる。杏奴さんは小堀杏奴として、いわば自分の咲き出ている庭の垣の彼方を知らないことに何の不安・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
出典:青空文庫