・・・「つとめをしている間は、お座敷へ出るにゃア、こッちからお客の好き嫌いはしていられないが、そこは気を利かして、さ――ねえ、先生、そうじゃアございませんか?」「そりゃア、そうです」と、僕は進まないながらの返事。「実は、ね」と、吉弥はしま・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・俗曲と家畜を一緒にするのは変であるが二葉亭の趣味問題としていうと、俗曲の方には好き嫌いや註文があって、誰が何を語っても感服したのではなかったが、家畜の方は少しも択り好みがなく、どんな犬でも猫でも平等に愛していた。『浮雲』時代の日記に、「常に・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・き声を聴いていると、また坂田三吉のことが強く想い出されて、「どういうもんか、私は子供の泣き声いうもんがほん好きだしてな、あの火がついたみたいに声張りあげてせんど泣いてる子供の泣き声には、格別子供が好き嫌いやいうわけやおまへんが、心が惹か・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ 母はまた、年をとるほど好き嫌いも激しかった。そのためにお三輪の旦那とは合わないで、幼少な時分の新七をひどく贔屓にした。母はどれ程あの児を可愛がったものとも知れなかった。この好き嫌いの激しい母が今のお富と一緒に暮しているとしたら、そこに・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・つらつら、考えてみますと好き嫌いが先に定って、理窟が後になる事実ほど恐しく、嫌なものはありません。お好き? お嫌い? それで一瞬は過ぎて、今は嫌いなのです。だから世の中の言葉はひとの感情をあやつるに過ぎない気がします。ぼくにもそろそろマスク・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そういうDさんだって、僕があの人の日常生活を親しくちょいちょい覗いてみたところに依ると、なあに御自分の好き嫌いを基準にしてちゃっかり生活しているんだ。あの人は、嘘つきだ。僕は俗物だって何だってかまわない。事実を、そのままはっきり言うのは、僕・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・尤この頃自分で油絵のようなものをかいているものだから、色々の人の絵を見ると、絵のがらの好き嫌いとは無関係な色々のテクニカルな興味があるのである。実際どれを見ても、当り前な事だが、みんな自分よりは上手な人ばかりである。しかしその上手な点を「頭・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとした・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・こういうようなものでありますのに、いろいろな社会の建設、進歩のためには自分の好き嫌いの感情でわれわれは今だまされている。もしだまされていないならあんな政党の立候補者の情勢はどうでしょうか。あんなラジオ放送は耳障りで聴いていられない。聴いてい・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
・・・ 机を掃除する事でも、好き嫌いでももうすっかりわかって千世子が七日に一度と、かんしゃく、を起さずともいい様にまでなった。 それを手離すと云う事はかなり辛かった。 さきだってまた、夜こそ更かすが朝もそんなに早くなし、嫌いな事さえし・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
出典:青空文庫