・・・おいが、新蔵の鼻を打ったと思うと、障子も、襖も、御酒徳利も、御鏡も、箪笥も、座蒲団も、すべて陰々とした妖気の中に、まるで今までとは打って変った、怪しげな形を現して、「あの若いのもおぬしのように、おのが好色心に目が眩んでの、この婆に憑らせられ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ はらりと、やや蓮葉に白脛のこぼるるさえ、道きよめの雪の影を散らして、膚を守護する位が備わり、包ましやかなお面より、一層世の塵に遠ざかって、好色の河童の痴けた目にも、女の肉とは映るまい。 姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばか・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・この、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想い出した。…… 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。「漕げ。」 紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。 一度、駆下りよ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 溺死人、海水浴、入浴、海女……そしてもっと好色的な意味で、裸体というものは一体に「濡れる」という感覚を聯想させるものだが、たしかにこの際の雨は、その娘の一糸もまとわぬ姿を、一層なまなましく……というより痛々しく見せるのに効果があった。・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・その一つは、好色の念であります。この男は、よわい既に不惑を越え、文名やや高く、可憐無邪気の恋物語をも創り、市井婦女子をうっとりさせて、汚れない清潔の性格のように思われている様子でありますが、内心はなかなか、そんなものではなかったのです。初老・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった・・・ 太宰治 「古典風」
・・・嘘つきだ。好色だ。弱虫だ。神の審判の台に立つ迄も無く、私は、つねに、しどろもどろだ。告白する。私は、やっぱり袴をはきたかったのである。大演説なぞと、いきり立ち、天地もゆらぐ程の空想に、ひとりで胸を轟かせ、はっと醒めては自身の虫けらを知り、頸・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さん・・・ 太宰治 「竹青」
・・・「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」 ここに一個または・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・私はこの好色の理想のために、財を投げ打ち、衣服を投げ打ち、靴を投げ打ち、全くの清貧になってしまった。そうして、私は、この好色の理想を、仮りに名付けて、「ロマンチシズム」と呼んでいる。 すでに幼時より、このロマンチシズムは、芽生えていたの・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
出典:青空文庫